[自己紹介]
溝手 顕正(みぞて・けんせい) 誕生日 …昭和17年9月13日 血液型 …B型 趣味 …料理、スポーツ観戦、読書 家族 …妻・美重子、一男一女 座右の銘…人間万事塞翁が馬(じんかん ばんじ さいおうがうま) |
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-学歴-昭和30年 3月 広島大学附属三原小学校 卒業 -職歴-昭和41年04月 新日本製鐵(旧 富士製鉄)株式会社 入社 -主な役職の経歴-【政府関係】 地方行政委員会 理事 【自由民主党関係】 自民党 副幹事長 |
溝手顕正の時代背景・歴代内閣総理大臣を
対比した年表です。 画像をクリックすると、 JPEGファイルでご覧頂けます。 |
エピソード
幼年期~高校時代編
みぞて顕正の少年時代。
それはガキ大将を絵に描いたような、わんぱく小僧でした。
スポーツ能力に長け、勉強も頑張った少年。
みぞて顕正のショートストーリーをお届けします。
溝手が生まれ幼児期を過ごした広島市南区皆実町の生家は、現在の県立産業会館辺りにあった。いまは国道2号線になっている。
その後、安芸郡矢野へ転居し、原爆の難は逃れた。 食糧難の戦後は、父方の里、加茂郡原村(現在の東広島市八本松町原)で過ごした。 小学校へ進学する時、当時の日本通運に勤めていた父親の転勤に伴い三原に居住。 三原小―広大附属三原小中学校に学んだ。 子供の頃、近くに住み共に遊び「ケンちゃん」「マサルちゃん」と呼び合う仲だった保道勝さん=三原市城町=は「泥んこになり路地裏を走り回る毎日でした」という。 |
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あるとき三原の三大祭のひとつ神明祭で子供の飛び入り相撲大会があった。
土俵周りで見ていた溝手は、いても立ってもおれず腕まくりして「オレは勝つぞ」と土俵にあがった。 あれよあれよという間に並み居る相手を次々なぎ倒した。 優勝戦では豪快な上手投げで上級生を投げ飛ばし、子ども横綱になった。 手にした賞品は醤油一升ビン。 子ども横綱のケンちゃんをはじめマサルちゃんら、みんな大喜びで持ち帰り分け合った思い出があると保道さんはいう。 当時から腕っ節の強い少年だったそうだ。 また友人の木原啓文さん=三原市本町=は「溝手君は、向こう気の強い頑張り屋でした。」と少年期の溝手を評する。 |
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スポーツ好きの溝手は、中学に入ると勉強より野球に熱を上げた。
投手、外野手をこなした。腕っ節が強く3番打者。 対戦相手の中学生だった岡林嘉武さん=三原市城町=は「中学生離れしたパワーヒッターでした。校舎へダイレクトで打ち込んでいました」という。 岡林さんは「彼が打席に立つと外野手はバックして守った」と往時を語る。 広大附属広島高校に入学してからはサッカー部に入る。 ちょうど、同校のサッカーは全盛期を迎えることとなった。 後に日本サッカー界を背負って立つ小城得達、桑原楽之選手らは同級生で無論同じサッカー部仲間。彼らと共に昭和35年全国高校選手権大会で準優勝した。 |
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溝手は青少年時代に相撲、野球、サッカー、大学ではアメリカンフットボールとスポーツ万能で体を鍛え上げてきた。
それが現在の不死身の溝手をつくり上げたのだろうと無二の親友の中山雅夫さん=三原市宮浦町=は語る。 やっと溝手が勉強に目覚めたのは3年生秋になってからだったようだ。 当時を振り返り溝手は「勉強は遅きに失し大学入学のため1年浪人した。しかしスポーツを通じ勉強以上のものを体得できた」と回想する。 |
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大学時代~サラリーマン編
スポーツに明け暮れた中学、高校時代。一郎時代を経て、東京大学法学部に、すべり止めナシの一発合格をします。
大学ではアメリカンフットボールに、新日鉄時代もラグビーに。
夕日に向かって走れっ!
社会人になっても、元祖スポ根男 みぞて顕正でした。
首尾よく東大法学部に入学した。
溝手は生来のスポーツ好き。 またまたスポーツ好きの虫が目を覚ました。 「よし弱いアメフト部をオレが強くするぞ!」 とアメリカンフットボール部に入部。 中世ヨーロッパの剣士を思わせる、ヘルメット。 肩には鎧のようなショルダーパットに身を固めた独特のスタイル。 一瞬のスピードと全身で力いっぱいぶつかり合い、勝負を賭ける姿にも憧れた。 |
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当時の東大は2部リーグに低迷、1部昇格は“夢のまた夢”といわれていた。
そんなアメフトに飛び込んだ溝手だが、3年生のとき2部で優勝し、1部リーグとの入れ替え戦に敗れた。 4年生になり主将になった。 「なにが、なんでも優勝して1部リーグ入りしよう」 を合言葉に部員を引っ張り、連日駒場練習場でボールを追った。 その甲斐あって全勝し入れ替え戦で防衛大に完勝した。 そして念願の1部リーグ入りを果たした。 それは昭和34年に東大アメフトが誕生して以来、悲願の達成だった。 そのときの喜びを思い起こし溝手は 「オレの在学中に1部リーグ入りするぞという目標を心に持っていた。人生も目標に向かい努力、突進あるのみだ」と悟ったという。 |
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昭和41年。
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また入社4年目の昭和44年3月、美重子さんと大恋愛の末ゴールインした。
当時のロマンスを美重子夫人が語る。 「今は互いに太ってしまいましたが(笑)、当時の夫は俳優の渡哲也さんを彷彿とさせる男前でした。(惚) 私は芦屋、彼は明石に住んでいたのでなかなか会えません。 デートがどれほど楽しみだったか…。(遠い目)」 二人の仲むつまじさは、何十年経った今も変わらない。 夫人をことのほか大切にする溝手の愛妻家ぶりは有名だ。 長年支え合い、互いを愛おしみ、豊かに年を重ねている理想の夫婦像がここにある。 |
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会社経営編
新日本製鉄時代に美重子夫人と結婚した溝手。
新日本製鉄を退社し、婦人の実家である幸陽船渠という船会社に転職し、副社長として迎えられました。
折しもバブル景気がはじけた日本経済。
冬の時代の足音が近づいていました。
溝手は昭和46年3月、エリートコースを歩んでいた新日鉄を退職し、妻の美重子の父である木曾清氏が経営する幸陽船渠に副社長で迎えられた。
溝手の社長時代。職業柄、英語は堪能。 木曾の下で全く未経験の造船の仕事に直面する。かたわら三原商議所副会頭としての財界活動にも多忙を極めた。 54年木曾の急死により社長に就任。従業員3000人のトップに立った。 折しも造船不況。会社の危機に立ち向かわざるを得なかった。 合理化などで負債を大幅に減らしたものの韓国など後発の台頭で船価は下がり円の下落も重なり不況の波をもろに受け苦境に立たされた。 |
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やむなく61年6月、友好関係にあった今治造船と経営権譲渡の締結をした。
経営権譲渡。 つまり、自分のクビを差し出す代わりに、下請け業者の雇用、従業員の生活は継続してもらうという契約だ。 三原で育ち、三原に育ててもらった溝手にとっていかなることがあろうとも地元に迷惑をかけることは絶対許されないことであった。 溝手は 「だから、経営権譲渡という方法を選択した」 と当時の苦しかった心のうちを明かした。 しかしこの選択は、後に溝手への人柄、信頼を不動のものにした。 そして市長、参議院議員へのステップへとつながっていくことになる。 人間万事塞翁が馬。 まさに溝手顕正の座右の銘を地でいくものだった。 |
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会社をクビになったこの時をもって溝手は裸一貫からの再スタートとなった。
生活のため、溝手は幸陽船渠をともに去った数人と小さなコンピューターソフト会社を設立した。 そのころ居酒屋で杯を傾けながら仲間と談笑することが多かった。 その中で市民の多くが停滞した市政に閉口しているのを強く感じとっていった。 そこで溝手は「市長になって三原を変えよう」と市長選出馬を決心した。 |
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やがて溝手の市長選への噂が市民の間に広がり始めた。
「なにを考えているのだろう」「大手企業や現職市長を敵に回して勝てるはずがない」無謀とも思える溝手出馬の噂に多くの市民は驚きを隠さなかった。 溝手にとって味方する材料は何一つなかった。 62年11月市長選を控え溝手が同年4月の連休前、親しい友人に市長選に立候補の気持ちを打ち明けた。 友人は「とんでもない事だ。勝てるのか?」と問い返した。 溝手は「今選挙したら現職市長は2万~2万千票。俺はゼロ票だ。これから運動して勝負する。」と真剣な眼で語ったという。 友人は語る。 「その時の表情は、子供の頃、すっくと立ち上がり『俺は勝つぞ!』と目を輝かせて、子供相撲の土俵に上がった時のケンちゃんと同じでした。」 三原市議会選挙が終わった5月連休明け。 溝手は、各方面を歩き自分の気持ちを打ち明け始めた。 |
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政治家溝手顕正の誕生編
ゼロからのスタートとなった溝手。
それは自分を育ててくれた町である三原市を見つめ直すチャンスでもありました。
閉塞感ただよう三原市を何とかしたい!
郷土を愛する彼がチャレンジしたのは三原市長選挙でした。
立ち上げはたった3人
三原市長選挙出馬を決意した溝手。 周りの友人達は 「無茶だ」「無謀だ。三菱を相手に勝てる訳がない。正気なのか。」と反対した。 しかし「市を活性化する。このままでは三原が埋没する」と溝手は強い決意を明かした。 心を打たれ、まず親友の二人が協力を約束した。 地元財界人のパイプ役、市消防団長、二人とも多方面に存在感を見せている。 選挙になると20歳は若返ると周辺が冷やかすほどの元気さだった。 話を聞きつけた、溝手の同級生、幼なじみ…、仲間達が徐々に増えていった。 早速、元喫茶店跡の2階を借りて選挙対策事務所を開いた。 山積みされていた古ぼけた机椅子のほこりを払い並べ、選挙作戦に取り掛かった。 みんな、選挙のセの字も知らない素人の集まりである。 |
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まず、歩き溝手を知ってもらおうと、溝手と仲間達は一緒に広い市内を歩き始めた。
市議の一人から「1万世帯と握手しないと現職を向こうに回して戦えない」と教えられた。 溝手は「それなら市内3万3千世帯のうち3万世帯を走破する」と決めた。 3万世帯へ挨拶回り。半年もないのに通常なら回れるはずがない。 しかし溝手は朝8時~夜8時まで各戸の戸を叩いた。 溝手はゴム底の靴に履きなおした。 夜、事務所に帰ると膨れ上がった両足を冷水入りのバケツに突っ込み冷やした。 あるとき仲間の一人が溝手の足裏を目にして驚いた。 マメが潰れソックスは血がべっとり付いている。貼った絆創膏もめくれ痛々しい。睡眠時間も3~4時間は当たり前だった。 溝手は「若さとスポーツで鍛えた体、体力には自信があった」と話す。 三菱社宅へも顔を出した。 「帰れ。お前に用はない」と激しい口調で罵られた。 溝手はひるまず「溝手の顔ぐらい見てください」と声をかけた。 社宅の中には周囲を気にしながら小声で「三原を変え活力を入れてください」と激励もあったそうだ。靴4足、背広3着潰す 無理と言われた11月の告示までの3万世帯訪問。 しかし溝手は、見事に目標を達成した。 |
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1軒1軒足を運ぶ溝手の作戦が有権者の心に通じ、併せて「三原はこのままではいけない」という声が一段と高まりを増し、夏を迎えるころにはあちらこちらから「うちの方へ来なさい。案内するから」と声が掛かりはじめた。
溝手の行動と考えに呼応したグループ、団体、市議らが独自に動きを始めた。手狭になり、事務所を本格的に構えた。 正式の事務所開きの9月18日には2000人の支援者が集まった。告示に向けフル稼働に入り事務所への人の出入りが激しさを増してきた。 現職は労働組合系、「市政は保守本流であるべし」の議員達が溝手支持に回り始めた。 その中の一人である前広島県会議員の平田氏は「厳しい戦いになり敗れたら私の政治生命も絶たれる。共倒れだ」と語り厳しい船出を覚悟したそうだ。 商議所、経済同友会、三原JC、商栄会、三師会(医師・歯科・薬剤師会)、法人会などが支持を決めた。 地元経済人有志で溝手を支える元正会が出来上がり強力に動いた。 また、市長選を機に誕生したマドンナ会(平井紀美恵代表)の活発な集票行動も見逃すことはできない。 女性票の掘り起こしの柱となり活動した。 |
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8月3日に溝手は正式出馬を表明した。
9月に入り、各方面の励ます会や決起集会が開催された。 10月には5000人が集まり、女性の集いでは2500人を集めた。 支援者の波はうねり始めた。 この様子を議長室の窓越しに見た市議会議長は独り言のように 「溝手は勝った。女性は強い。選挙は女性を味方に付けることだな。」 とつぶやき驚いたそうだ。 11月1日に告示、11月8日が開票。 出陣式には国会議員、県議、市議らが顔をそろえた。 投票日の11月8日は快晴。 投票率86.46%。 支援者の皆さん、本当にありがとうございました。 開票が始まり夜9時30分溝手22,500票、土居17500票。 5000票の開き当確が出た。 この瞬間事務所に万歳。 「勝った!」の歓喜のどよめきが広がった。 「ゼロ票からの出発」が6ヵ月足らず、市民挙げての草の根選挙が実を結んだ瞬間であった。 最終票は溝手30,817票、土居21,698票の8,000票の大差の勝利だった。 |
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マドンナ会代表の平井紀美恵は
「三原の夜明けだった。素人の決起が流れを変えた。」 当時の思い出に浸り政治生活30年の節目に、ことのほか意義深く感じたという。 初登庁の18日溝手は川東町内会の人に送られ徒歩で自宅を後にした。
沿道には人並みができた。駆け寄って花束を渡す人も出た。 溝手へ市政を託す強い表れだったのだろう。 政治家溝手顕正の晴れのスタートだった。 溝手の座右銘は「人間万事塞翁馬」。 溝手のホームページにも真っ先に出てくる。それにしても溝手顕正、逆境に強い男である。 |
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